このコロナ騒動のために、教会でのミサがキャンセルされてから、早1ヶ月半が過ぎました。。(私が最後にミサに行くことができたのは3月15日でした)
私の地元(Hampton Bays, NY)では幸いにも教会自体は今でも開いており、中に入って祈ることができています、が、同じNYでもマンハッタンの方ですと教会自体がロックされて入れない、という状態のようです。本当にすごい世の中になりました。。
しかし、このコロナのような疫病(いえ、コロナは昔に流行った疫病に比べたら死に至る確率が全然低いものではあるようですが)があった時に、教会はどのような対応をしたのか・・・疫病ではありませんが、第2次世界対戦中でさえミサはキャンセルにならなかった、と言います。
そんな疫病が起こった時に、真っ向から立ち向かい、人々に仕え続けたミラノの大司教、聖チャールズ・ボロメーオさんのお話を見つけましたので、こちらに訳してご紹介します。
今この時代、聖チャールズさんのような聖職者がたくさん必要であるに違いありません!
引用元:How Saint Charles Borromeo Fought the Deadly Virus in Milan
今回も少々長いので、何回かに分けてお届けします。
死のウィルスと戦った聖チャールズ・ボロメーオ
世界で伝染病が流行ったのはコロナウィルスが最初ではありません。
しかし、教会が閉ざされ、秘跡を受けることが難しくなっている中、一つの質問が浮かび上がります:
過去に、聖人たちはどのように疫病に対処したのか。
歴史の中で輝く黄金の記録・・私たちは一人の聖いビショップ=司教を見つけました。その司教とは、コロナウィルスよりもさらに死亡率の高いウィルスと対面した人です。
1576年から1578年、ある疫病が北イタリアを襲い、何万人もの死者を出しました。この伝染病は聖チャールズ疫病としても知られています、それは、枢機卿でありミラノの大司教、聖チャールズ・ボロメーオ がとった英雄的な対応のためです。
じっとしているか、魂の救いのために出ていくか
1576年8月11日、有名なオーストリアのドン・ジュアン(またはドン・ファン)が到着した、そのための祝祭が計画されている中、その疫病はミラノ北部で発生しました。その知らせを聞くやいなや、ほとんどの世間的な権力者たちは、ドン・ジュアンと共に逃げてしまいました。
聖チャールズがそのニュースを聞いた時、彼は市から離れた場所で行われていた、ある司教の葬式に参列していました。その場所に留まる、または逃げる、のではなく、彼はただちに市街に向かいました。ミラノ市に入ると、沢山の人々が哀れみを乞い叫びながら彼に駆け寄りました。
旅からの休息も取らず、聖チャールズは大聖堂へと向かい、短い祈りを捧げました。神へ助けを訴えた後、彼はホコリだらけの服を着替える時間も取らず、そのまま疫病の広がるその中心地へと向かいました。
彼がやっと彼の司教館から出てきた時、政府の役人たちが彼をずっと待っているのを見つけました。彼らは、彼らの職を放棄した州知事を含むリーダーたちの代わりに、この市を指揮してほしい、と聖チャールズに頼んだのでした。
聖チャールズは、その重責を受入れ、彼らに言いました、
「ずいぶん前に、私は、人々のための良きことに対して、どんなことも未完成のまま去ることはしない、と決意しました。
心からお願いします、どんなことよりもまず、あなたの心を失わないでいただきたい。そして、この一番助けが必要な事態の中で、この市に生まれ育ったにもかかわらず、この騒動で飛ぶようにあわてて見捨て去っていったあの人々には感化されないでいただきたい。」
権力者たちが感染の恐れから、公共の場でのプロセッション;行列をなして通りを進むこと、や、宗教的な儀式を禁止してから、たくさんの人々が秘跡に与われなくなってしまいました。
聖チャールズは、そのことについて、これはミラノが招いた神からの怒りの結果だ、と言いました。したがって彼は役人たちに、
唯一の解決法は、今まで行ってきたよりも、さらに敬虔に、信心深く捧げる「祈りと悔い改め」のみだ、
と伝えました。
(つづく)