(前回からの続き)
聖チャールズのガイドライン
聖チャールズは彼と共に働く司祭たちにこうアドバイスしました、
「人々を無視しない、と言う意味はつまり、予防薬、治療薬、医者、など、この病気を防ぐためのあらゆる方法があるからといって、私たちの義務を行わない、ということにはならない。」
人々が聖チャールズに、どんなに、必要のないリスクを避けるように説得しようとしても、彼はこう答えるのでした、
「神のみ私たちを他の場所へ動かすことが出来ます」
しかし、同時に彼は軽率ではありませんでした。イタリアのブレシアの司教の心配に答えて、聖チャールズはこう断言しました、
「通常の治療法を軽視することをせず、しかしながら、最初から、私は私自身を神の御手の中に全面的に委ねることを決意しています。」
聖チャールズは慎重なガイドラインを発しました。キリスト信者は集団で集まらないこと、なるべく互いのコンタクトを避けること。ミサはキャンセルにはならないが、教会があまりにも混むようであれば、屋外で行うこと、でした。
さらに、彼はミサの回数を今までよりも増やすように命じ、カテキズムのクラス(カトリック信者になるためのクラス)は外の通り道の角で行うようにしました。また教会の中では、病にかかった人々用の区画を分け、聖水も彼らのために別で置くようにしました。
彼からの、聖職者たちと行政官たちへの助言は、
「身体に伝染することよりも、疫病が魂を蝕んでしまうことをさらに考慮することで、さまざまな理由から、害を減らすことができる」でした。
困難な状況の中でこそ必要な教会の秘儀
死亡率と伝染率がきわめて高いにもかかわらず、聖チャールズは公共の場での祈りと償いを強く主張しました。
灰は常に配られました。また週に3回、プロセッション(筆者注:祈りながら街中を列をなして行進すること)が持たれました。そのプロセッションの中で、聖チャールズは懺悔のための分厚いコードを彼の首に巻き付け、そして裸足で歩きました。教会のベルが日に7度鳴らされ、ベルを合図に祈りと詩篇の歌を街の人々に促しました。
家から出られず、ミサやプロセッションに参加できない人々のために、聖チャールズは19の円柱を街中に建てました。それらの円柱の元で、毎朝、公のミサが持たれました。このことを通して、病気の人でも毎日ミサに与わることができ、また司祭たちも彼らの家の窓から病気の人達に御聖体(聖なるパン)を配ることが出来たのでした。それらの円柱は今でも、そのトップに付けられた十字架とともに、ミラノの街中に見ることが出来ます。
聖チャールズは、ほぼ毎日ハンセン病棟を訪問し、御聖体を苦しんでいる人々に与えました。また新しく生まれた赤ちゃんに洗礼を授け、臨終の人には終油の秘跡;司祭は臨終の頭に油を塗って清め救済を求めて祈ること、を与えました。
このハンセン病棟で働いていてたカプチン会のジェームス兄は、この時の聖チャールズの働きを見てこう言っています、
「彼は頻繁にハンセン病棟に来ては、病気の人達を慰めていました・・・各小屋やプライベートの家々の中に入って、病気の人々に話しかけ、慰め、また彼らの必要を与えていました。
彼は何にも恐れていませんでした。彼を恐れさせようというのは無用なことです。彼自らをたくさんの危険にさらせた、ことは事実ですが、しかしこれまで、彼は神の特別な恵みの中で守られていていますし、そうでなければできないことだ、と彼も言っています。確かに、この街にはその他の助けも慰めもありません。」
しかしながら、今日もそうですが、すべての人が神を恐れ、償いのための苦難を当然として受け入れる、というわけではありません。
何人かの、若いミラノの貴族たちは、疫病から逃げることを選び、街から遠く離れたそれぞれの別荘で、不純で、不道徳な行いをしました。彼らはこの別荘での行いを秘密裏にし、「愛の学院」(原文では”Academy of Love”)と称しました。
しかし、この堕落した人々は神の目にすぐに明らかになり、それは一番離れた場所にいた人たちまでに至りました。この疫病はこれらの別荘の中でも広がり、生き残った人たちはほとんどいませんでした。
(つづく)