(#2からのつづき)

「事故が起こる前から、あなたは相当聖母マリアに身を捧げていたのでしょう、だからマリアはあなたを特別に助けてくれたのだ」と人はいいますが、その答えはNO、私はそれほどの善い行いはできていなかった。いつも自分がどう見られるかだけを気にしていた自分にすぎない。だから、ただただ一方的な聖母マリアの愛によって救われた、としか言いようがない。

イエス・キリスト、全ての聖徒や御使い、聖母マリアを信じる、というのには2つの方法がある、頭で信じるか、心で信じるか。自分はいつも頭で信じるばかりで、心で信じることはなかった。それは想像上の友達のようなもの、ただ想像上の人物を信じようとしていたようなものだった。そしてこの特別な体験を通じて知り得たことは、イエス・キリスト、全ての聖徒や御使い、聖母マリアのいる世界こそが本当のリアリティー、唯一本物の存在で、私達が知り得る、目に見えるこの世はshadow world:影の世界である、と。そして自分のミッションは自分の魂と、人々の魂を救うため、本物の世界へ導くことである、と改めて知った。

審判の席では、自分がどれだけこの世で人々から愛されたとか、支持されたとかいう実績は何も役に立たない。イエスはただその人の心を見て判断される、それがリアリティー、本当の審判。だから人が自分をどう思うか、という心配は全く無用なのだ、と思い知らされた。

そしてこの出来事以来、自分はマリアのものとなった。それは全ての教会につながる信徒一人ひとりにも言えること。十字架上でイエスが言った「女の方。そこに、あなたの息子がいます」(ヨハネ19:26)という言葉を聖母マリアは非常に重く受け止めた。その言葉より、キリストに連なる全ての人々、全ての教会を、一人ひとりを、マリアはその母として真実に愛し、キリストへ導くために働いてくださっている。

審判の席では、イエス・キリストの前に立っている自分以外に、誰も入ることが出来ない。その中で唯一、聖母マリアだけがとりなしをしてくれて自分は救われた。今では聖母マリアに対して身も心も捧げている、その審判の出来事以来、彼女が自分の全て。

Trinity=父、御子、聖霊、のどの方も、彼女に対して一切NOとは言わない、いえ、言えないのです、それは不可能なこと。そのような方を、私達は必要なのだと思いませんか?

(#4につづく)