(#3からのつづき)

Mother Angelica: 視聴者のために・・・神父の働きについてイエスから「あなたはわたしのためではなく、ただ自分自身のためにしていた」と言われてしまったのは、具体的にどういうことなのか、説明してもらえますか?

自分は神の栄光のためではなく、自分の栄光のために神父をしていた、というその意味は・・・神父の勤めをするのは形だけで、キリストご自身が一緒ではなかった。私はミサを行うことには何も問題なかったが、同時にミサを欠席しなければならなくても何の問題(それを寂しいと思うような事)もなかった、ひとつも。自分はキリストの十字架に従って行く道=苦しみの伴う道、を選ばず、自分の十字架を背負う道=何か困難があるとそこを避け、逃げる道を選び、逃げれば逃げるほどイエスはさらに大きな十字架=困難をお与えになる(自分を教えるために)、そしてまた逃げる・・という道だった。

自分が神父だったそれまでの12年間、私は臆病者だったし、ただ見かけだけが良くて中身のない、上辺だけの神父であった。ミサでの説教、教会生活、告解、どれをとってもそれは自分を引き上げるためのものだったと思う。それは自分の孤独、痛みを埋めるために、そして自分の幸せや将来を良いものとするためであって、人々のためではなかった。本来は自分は置いておいて、まず人々に仕えていくべき身分であるのに。なので人々の苦しみにも同情も理解できない自分だった。

これからの自分の使命は、この神父は信用できる人物だ、と人々にわかってもらうこと、そして地獄は存在する、同時に神の恵みも必ず存在する、ということを人々に知らせることだと思う。

Mother Angelica: 神父の人々へ、もしくは神父になったばかりの人々に何か伝えたいことはありますか?

どんな神父にも、新しい神父、もしくは歴40年の神父にも言えると思うが、神父とはまずイエス・キリストに仕えること、そして神父として祈ること、そして人が聞きたいと思う事を語るのではなく、ただ真実を語ること、それが例え人々の聞きたくない話であっても語ることを恐れてはいけない、それが神父の仕事。キリストは神父に対して、神父は罪を犯さない、とは約束していない、神父も平信徒と同様に罪を犯す。そして恵みが人々よりもより与えられている分裁きも厳しくなる。

もし、神父でいながら日々の特別な祈り:Adoration(聖餐のパンをキリストの御体=キリストの存在としてただただあがめ祈る)など、を必要としていないならば、その神父は死んでいる、またBlessed Sacrament (聖餐のパンとぶどう酒が、文字通りキリストの体と血潮そのものである、という事)を心から信じていないなら、その神父は死んでいる、もしくは聖母マリアの存在なしの神父も死んでいる。。

私は幸いにも教訓を学ぶことができた。キリストに立ち返るために、キリストご自身に首をつかまれ、脅されてはじめて神父として目覚め、軌道修正することができた。もう二度と前の自分には戻らない、絶対に。

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番組はまだ続くんですが、訳はここまでにしておきます!(ふぅ〜〜〜〜☆☆)

こういった訳する作業はだいたい、まずアメリカ人と一緒に番組を見てもらって、その人に噛み砕いて説明してもらいつつ録音、それと本番組と両方を聞きながらしています。なので完璧じゃないし、自分で訳した部分にはmisunderstandもあるかもしれませんが・・・あしからず。まあ、大枠で合ってればいいとしましょう〜(^^;)

この番組で私が改めて学んだのは、やはり死後のキリストによる裁きの存在、そこでとりなしてくれた聖母マリアの存在と、私達への(母としての)愛の確かさです。三位一体の神様はマリア様には一切NOとはおっしゃらないんですね〜!すごい☆ それと聖職者の裁きは一般人よりも厳しい〜〜!ってこと。それだけ責任も、そして恵みも大きいんですね。審判の席で地獄を宣告された、なんて・・どんだけ恐ろしい経験だったでしょうか。事故の悲惨さといい、審判の席での体験といい・・・私達の想像のレベルをはるかに超えた”荒療治”、しかし同時にそれはAmazing Grace、驚くばかりの恵み、と言えるんじゃないでしょうか。

Steve神父は今にも泣きそうになりながら、でもとつとつと、ご自分の体験を包み隠さず、しかもテレビ番組でお話なさいました。自分の恥を公共の電波に乗せているようなものです。そこには勝手な想像も作り話も、一切入る隙がないことは一目瞭然です(ご本人が、自分はドイツ人で、誰よりも超自然を信じないたちだ、って言ってるぐらいで)。私達がここから学べることは相当大きいと思います。少しでもこの記事を通して神の愛の深さと不思議さがみなさんに伝わりますように祈りつつ。。

(完)