httpv://youtu.be/-_mmPI-SYBE
前回、ちらっとこのブログでご紹介した、Fr. Barronによる”主の祈り”の解説、あれからかなりの時間があいてしまいましたが・・(^^;)今回は全体を取り上げていきます。ちょっと長くなりますが、とても興味深い内容です。ご興味のある方、お時間のある方、ぜひ最後までチェックしてみて下さいね! :heart:

(ちなみに前回はこちら→The Lord’s Prayer:我らの日用の糧

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主の祈り(マタイ6章)は、イエス様が使徒や弟子たちに教えて、現在の私達にも引き継がれている、いわば基本中の基本、祈りの中の祈り。

マタイ6章7節に
「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。」とあるとおり、祈りの中にたくさんの言葉を入れればいい、ってものではない。

普通、私達が祈るとき、こうなれば、ああなれば、というお願いごとが中心で、いわば「〜して下さい!」という神の心を変えようとす祈り、しかし神の心は変わらない。祈りの目的は神の心を変えることじゃないし、変えられない。目的は私達が変わること。神は祈りを必要としていない、必要としているのは私達、祈りによって変えられるべきは私達の方なので、祈りによって何かを学ぶことが大事。

Our Father who art in heaven/天にいますわれらの父よ

Our Fatherはヘブル語でアバ、お父さん。神は私達の”父さん”、というとても親密的な表現している。が、しかしこの後に、Who art in Heaven / 天におられる、と続き、その方は天におられる方である、と。ここでは、私達が、神様の正しい位置を理解するべき事として教えてくれている。神様が私達の手の届く方であったら、私たちは神様をコントロールしようとしてしまう、しかし手の届かない天におられる方なんだ、と。。しかし、手の届かない方であると同時に、その方を“父”と呼べる親しい関係が示されている。

Hallowed be Thy Name/御名があがめられますように

Hallowed=神聖な。神様が聖(Holy)である・・聖書でHolyと言うとき、それは「分かたれる」という意味で使われ、神様は私達とは違う、最も聖なるお方であることを教えてくれる。私達がともに神様の神聖さを思うときに、私達の間に、内側に、神の平和が訪れる。この1節でもっともベーシックな祈り、私達を神様と一つにつなげて下さい、という祈りがなされている。

Thy kingdom come. Thy will be done on earth, as it is in heaven./御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

この世で「王国」というと、ネガティブな意味での統治や支配があるけれど、神様の王国、という時には、天国:聖人や天使たちがいる世界を、神が神の方法で統治している、それは愛、非暴力、平和、無私無欲に基づいた統治。その神の統治がこの地に訪れますように、神様の思いがこの地に実現するように、と願っている祈り。

Give us this day our daily bread./わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。

注:この節は前回に紹介したので省略しますが、カトリック中央協議会のページでは、ミサのことをこう解説しています。

キリストが復活したのが日曜日だったので、初代教会では、信者たちは日曜日 を「主の日」とし、キリストが「最後の晩餐」で定めた、彼の死と復活を記念する式に集まっていました。これがカトリック教会のミサの起源です。}

なので、ミサでは必ず毎回、聖餐式が行われるんですね。

And forgive us our debts, as we forgive our debtors./わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。

イエス様の教えの中で、特に難しい教えが、この「Forgiveness =赦し」であると思う。個人的にも、社会的にも、政治的にも、人を許せないことから起こる問題がどれだけ多いことか。それほど私達が赦しをマスターすることは難しい。

数年前に一度、前ポープ(=教皇)ヨハネ・パウロ2世がギリシャに訪問した時、ギリシャ正教の偉い方と会った。このポープのギリシャ訪問はギリシャ正教の中でも大きな話題になったが、その会談の中でなんと、13世紀に起こったカソリックとギリシャ正教間の悲劇を引き合いにしてギリシャ正教側がポープに話したという(700年も前のことを!)。。
私たちは、不正で、悲劇的な思い出は許すことが出来ない、家族の中でも、社会の中でも。
ここでの祈りは、私達に人を許すことができる能力を与えて下さい、と願っている。なんと中心的な教えでしょうか。

And lead us not into temptation, but deliver us from evil./わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。

最後のフレーズ。この祈りを、いわば心からの叫びの言葉でしめているようだ。この地ではevil=邪悪的なもので満ちている、肉体的にも、心理的にも、精神的なものや対人関係にいたるまで。。この祈りをそんなevilなもの、悪しき者から救って下さい、という、重要な、スペシャルなフレーズで締めてくくっている。。

まとめ

イエス様は、この祈りを「この祈りだけしなさい」とは教えていない。「このように祈りなさい」と教えてくれた。ということは、この祈りを全ての祈りのモデルにしなさい、という意味で教えて下さった。なので、主の祈りを繰り返し思いめぐらして、この祈りの要素を普段の祈りのベースとして考えてみよう。

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この祈りとは関係ないことですが、こういった解説やメッセージなどでは、カトリックの先生は必ず “We”=私達、という言葉を使います。人が、とか、他の宗教では、とかではなく、自分をも含めた意味での「私達」という言い方を必ずなさるんですね〜。教えられます。。