ゴスペルが日本にここまで根付くのは、他の国ではあまり考えられない、という事を前回の記事でも書きましたが、本当にその通りで、私はアメリカに住むようになって6年になりますが、日本を離れていればいるほど、そのことを痛感しています。

逆を言えば、ここまでゴスペルを歌い続ける、またはゴスペルを歌ってみたい、と思うには、何かしらの理由があると思うのです。

今回は、そんなことを模索し、考えてみたいと思います。

 

誰でもが同じ立場になれる

私が指導するゴスペルのクワイヤのメンバーは、ほとんどが働き盛りの社会人、結婚して家庭を持ちつつ働いている人もいれば、そうでない人もいます。年代もさまざまですが、30代、40代、50代あたりがほとんどを占める感じでしょうか。。

それぞれ働いている分野もさまざま、役職もさまざま、背負っている責任も家庭環境も年収も経験も、何もかもがそれぞれです。きっとこれが会社とかであれば、上下関係があったり、力関係があったりするのでしょうが、ことゴスペルの練習会場に集合してしまえば、すべての人が同じ立場なのです。ただクワイヤの一員、ゴスペルグループのメンバーの一人、になります。

ここでは、自分の背負っているものから全て離れ、誰でもが同じ立場に立ち、歌うことに没頭できます。それが安心感や安堵感につながるんではないでしょうか。それこそ、神様の前にすべての人はみな平等なわけで、その本来の立場に戻れる場、ということかもしれません。

どんなに仕事が疲れていても、なんとか時間を作ってレッスンに来てくれます、そして仲間にあって一緒に大きな声で歌うことによって、疲れがいやされ、スッキリするようなのです。来る前は「ちょっとしんどいな〜、今日はやめようかな・・」と思っていても「やっぱり来てよかった!」となる、と言ってくれます。

歌うことの力と、ゴスペルの曲の持つ力が合わさって、さらに仲間に会う、という人とのつながりが、このようなパワーを生み出しているのだと思います。

 

助け合う仲間

グループですから、一人で歌うことはできません、みなで足並みを揃えて歌わないと、歌が成り立たないのです。

グループの所属して長い人もいれば、入ったばかりでわからないことだらけの人もいます、そういう時には、分かる人がわからない人を少し手助けしてあげる、そんな雰囲気がどのクワイヤにも見られます。まあ、私からも時々そのように指導もしますけれど。

自分が入って間もないころに誰かに助けてもらった、だから私も同じように新しい人を助けてあげよう、という、とてもシンプルなサイクルが自然に生まれるのも仲間で歌うことの良いところだと思います。

誰かが声をかけてあげることにより、周りも互いに声をかけやすくなったりするものです。また、わからないときに「わかりません!」と言いやすい状況を作る、そんなことも必要になってきます。それぐらい、参加している人がリラックスできる状況を作ることも、大切な指導者の役割だと思っています。

今何をやっているのか、どこを歌っているのか、この曲は知っているけれど、今歌っている曲は知らないし、歌詞カードもないし・・という中では誰でも不安になります。その不安は指導者だけでは目が行き届かない部分も多く、だからメンバー間のつながりが大切になってきます。すぐ横にいるメンバーがちょっと声をかけてあげることで解消してしまう些細な事なのですが、これができる空気があるかないのか、という違いなんですよね。

ゴスペルの歌の内容、もそうですし、もともと聖書の教えが「与えられるより与える人になりなさい」「自分を愛するように隣人を愛しなさい」など、自分よりも周りの人を優先し、助け合う教えが底辺にあるので、そのメッセージが自然とゴスペルを歌っているうちに、そのグループ内での人とのつながりに現れてくるんじゃないでしょうか。