歌詞カードだけがゆいいつの資料

私が一番最初にゴスペルを体験したのは、1995年、東京にある横田空軍基地の中にある教会でした。

会場に入ると渡されたのは歌詞カードのみ、譜面は一切ありませんでした。そしてその場で、ディレクターである女性の牧師さんが、小柄ながら力強い声で各パートのメロディーを歌い、私たちは聞いたそのままを、歌詞カードを見ながら何度か歌って、その場で聞いたメロディーを耳で覚えながら進めていく、という方法でした。

私にとっては初めてのことで、最初はただ周りの人のまねをしながら付いていくのに必死でしたが、流れがわかってきたら、ついていくのもだんだん慣れていきました。

期間は1週間ほどありましたが、後半になると、もうだいたいの課題曲はみな歌えるようになっているわけですが、曲に会衆が慣れてくれば来るほど、その曲の意味していること、またはちなんだエピソードなど、話しや歌う上での心づもりみたいな事が、どんどん指導者によって与えられるわけですね。そうやって歌うだけじゃなくて、気持ちの面でもだんだん指導者と会衆が一緒になってくると、その指導者の感じている空気によって、同じ課題曲でも構成がその時によって変わっていくのです、それも自然な流れで。

バックで演奏しているミュージシャンもそこらへんは心得ていて、いとも簡単に、自然な流れで演奏を合わせていました。そこに、「譜面」という枠組みはもちろんありません。

 

歌詞だけのほうがベターです

その後、今度私が指導する立場になっても、同じやり方で指導するようになりました。

譜面は基本的にメンバーには渡しません、歌詞のみです。私が最初戸惑ったように、このやり方に戸惑う人も少なくないと思いますが、慣れてくると、このやり方が一番早くて、覚えると忘れないのです。次第に歌詞も見ないで歌えるようになります。

逆に譜面で覚えると、不思議と、譜面がないと歌えない、という状況になってしまうんですね。さらに譜面が長く長くなってしまうと、今度は譜面をフォローするだけで忙しくなってしまい、曲の全体像も見ることが難しいんじゃないかな、と思います。そうなると、指導者と気持ちの共有するのはもっと難しいですよね。

 

演奏中どこにでも行けるフレキシブルさが重要

また、ミュージシャンがいる場合、ミュージシャンもその場で、指揮者の指揮に対応するために、つねに指揮者を見てもらっている必要があるのですが、これが譜面どおりに行く(はずだ!)、という前提ですと、そこのコミュニケーションがうまく図れず、うまくいきません。譜面ではこういう指示となっているから、ちがう構成になったら対応できない、という状況になってしまうんですね。

しかし、ゴスペルとはスピリチュアルな要素が大きくある音楽なので、指揮者や歌い手、その歌われている会場のその場の雰囲気や流れ、次第な部分が重要なのです。

構成が最初からばっちり決まっていて、あまりそういった「あそび」の部分がない曲や、カラオケを使う場合などは問題ないのですが、

例えば、この箇所をもう一回繰り返したい、この箇所にもう一回戻りたい、この箇所は歌を休んで楽器だけにして、歌い手は静まりたい、または、エンディングの繰り返しの回数を決めずに、指揮者のキューで終わりにしたい、という、その場の流れでどこにでも行けるようなフレキシブルさが、時に必要なのですね。そこの理解がないと、なかなか譜面通りには行かないゴスペルを一緒に演奏するのは難しいのです。

クワイヤは、常に指揮者を見て、その指揮で歌がどのように進んでいくのかを見ることが簡単にできるので、あまり問題ないのですが、楽器の演奏者がいる場合は、特に気をつけて、この内容を伝えないと、演奏中の意思疎通は難しいです。

盛り上がる所、盛り下がる所、何をフューチャーさせたいのか、はたまたなぜここで静まりたいのか、という感情の流れをくんでくれるミュージシャンというのは、なかなか難しいところがあります。

そういう意味で、”あうん”の呼吸でできる、言わなくてもわかってくれるミュージシャン、というのは本当に貴重です。長年一緒にやってきて、失敗もいろいろ積み重ねながらやってきたミュージシャンとの演奏は、なにより安堵感、安心感が違いますね。

 

譜面は基本的なインフォメーションにすぎない

譜面は、ある程度の基本的なインフォメーションに過ぎず、出たとこ勝負で、演奏がいったん始まってしまったら、その場の流れを読んで、指揮者の出したサイン次第でどうにでも形が変わっていく、というスタイルは、ゴスペル特有のことかな、と思いますし、その要素を理解してくれるミュージシャン、シンガーは本当に貴重です。

ゴスペルを演奏したことのあるミュージシャンの方々、あなたはとても貴重な存在ですよ!