最近、本当にいろいろな場所で賛美する機会が与えられています。とても感謝な事です。

というのも、今私の通っているMt Pisgah Baptist Church の牧師、Rev. Johnny R. Youngblood 先生がいろいろな集会に招かれ、メッセージなさるんですが、その集会に私にもお声がかかるわけですね。と言ってもたいがいOuidaから「どこどこに明日来れるか?」と前日ぐらいに連絡が来て、わけがわからず行ってみると先生がいらっしゃる、というパターンなのですが。

で、その集会に参加すると、だいたい先生のメッセージの直前に「AKO! 来い!」(←先生が最近覚えた日本語です)と壇上から声がかかり、言われるがままに前に出て、歌う(今のところ、罪とがをゆるされ、しか歌ってない!!)という流れになっております。最初は驚きましたが、さすがに最近はもう慣れました。。(笑)

でもこのように私を用いてくださるのは本当に感謝な事ですよね!!なんという神様の大いなる計らいなのか・・と思わざるを得ません。あり得ないっす!普通!!(涙)

Rev. Johnny Ray Youngblood ←Rev. Johnny Ray Youngblood

○賛美の力

つくづく思うのは、賛美とは「道備え」の役割があるんだなーと思うんです。その場の空気(クリスチャンの中では“霊的に”、という言葉を使ったりしますが)が賛美する事によって整われるんですよね、きっと。歌ってる本人は一生懸命すぎてなんにもわかりませんが、神様が働いてくださるんです。神様からのメッセージを取り次ぐ牧師先生がより語りやすいように、聖書の言葉がより会衆の方々に届きやすくなるように、神様が働きやすい状況を作るために、賛美はあるんだ、と思います。クワイヤはきっと、会衆一同の神様に対する感謝の気持ちを一つの方向に導くその道備え、そしてリードする役割があるんだと思います。(ちと偉そうな言い方ですみません・・・)そして、もし、私たちをその役割のために用いてくださるんだとしたら、なんという光栄なことか!!そのようでありたいと心から願います!・・・すべての栄光を主にお返しします!!!

○捧げ物について

そしてもう一つ、前回のブログで「什一献金」の話を書きましたが、今日の礼拝ではまさに献金に関するメッセージでした!!(驚)マルコ12:41〜、ルカ21:1〜に出てくる、貧しいやもめがレプタ銅貨2つを献金し、イエス様に目を留められる、というお話です。とても有名な箇所ですね。でも先生のお話は独特の観点からされてとても興味深い内容でしたので、ご紹介しようと思います。

・この時代、神殿の中で人々を教えていた律法学者たちも大祭司もいた時代です、律法を厳格に守っていたパリサイ人が多額の献金をしているのですが、それよりも貧しいやもめの方が誰よりも多くを捧げたのだ、とイエス様はほめられました。先生曰く「Preacher was BAD!」だと。。この時代、指導者がダメなのにも関わらず彼女は神様に心からの献金をささげました。だから私たちも指導者のせいにして献金にけちをつけてはいけない、のです。私たち一人一人と神様との個人的な関係においてされるのが献金だから、です。

・彼女は自分の持っている「あるだけ全部」を捧げた、と聖書にあります。見かけは貧しかったかもしれません、しかし彼女は誰よりも多くの捧げものをした、とイエス様に認められました。一方、私たちは見かけが貧しい人はほとんどいません、しかし献金は貧しい人のようにします。。。それをイエス様は認めてくださるでしょうか?と。。あなたは最近、主に「あるだけ全部」を捧げたことはありますか?と言われました。。→ 結構な直球ですね!!!(汗)

・最後に、これだけの事を聖書は伝えながら、彼女の名前はどこにも記されていません。もしかしたらその時、イエスは彼女に声をかけてもいないのかもしれません。二つの福音書に記されるほどの事なのに、です。もしかしたら彼女は一生涯、この出来事を知らないままだったかもしれないんです。しかし、神様は私たちの全てをご存知です。天において、きっとイエス様が彼女に福音書を開き、「ほら、こことここにあなたの事が記されてるんですよ」とおしゃって下さっているかもしれません。誰も見ていないようなことであっても神様はご存知で、その事が聖書に記され、語り継がれている、たったレプタ銅貨2枚であっても捧げた彼女にとっては大きな遺産「Legacy」となったんです。同じようにみなさんにもそれぞれのLegacyを主が与えてくださいますように。。

という内容でございました。。いやーー心がじ〜んと温まるお話でございました。。。(涙)