最近、縁あって、敬虔なCatholicのクリスチャンの方と知り合い、いろいろと教えてもらっています。Catholic ChurchのMass(私たちの言うところの礼拝)にも何度も連れて行ってもらいました。Church of St. Paul the Apostle とか、St. Patric’s Cathedral などなどです。

どの教会も特色があるのですが、いずれにしてもまず圧倒されるのが、その建物や内装のきらびやかさ、荘厳な、長い歴史を感じさせるどっしりとした雰囲気、包み込まれるようなパイプオルガンの重音な響き・・そして不思議に感じる、なんともいえない穏やかさがありますね。。Massが終わった後には圧倒的な平安で満たされます。。もう最初の1回で大好きになりました!

本当に感謝だな〜と思うんですが、その一方で、なんと私たちProtestant のクリスチャンの間には彼らに対する偏見が根強くあるんだろう、と気づかされる事が多く・・その友人も自分がCatholicだ、というだけで、Protestantのクリスチャンからは白い目で、ひどい時には悪魔を見るような目つきで見られた、と言っていました。。日本にはまだそのような偏見は無いと思います(と、信じます)が、同じキリストを信じていながら、なんとお互いに誤解がたくさんあるだろう、と思わされました。。

Catholicが素敵だな〜と思ったのは、まず、純粋に、ただただイエス・キリストだけがあがめられていることです。Protestantの教会では一般に、Catholicはマリア様も同じようにあがめられているから間違っている!と言われていますが、彼らはマリアを礼拝している訳ではない、尊敬の意味でマリアは特別だ、と思っている、なぜならイエスの母として選ばれた特別な方だからだ、と言います。そしてマリア像に向かって祈るのは、マリアの祈りをイエスは特別に聞いてくださる(ヨハネ2章・カナの婚礼の時など参照)、だから”とりなしの祈り”をマリアにお願いしている、ということなんですね。聖書にも「あなたの父母を敬え」と書いてある通りで、母であるマリアをイエスが愛していないはずはない!と教えてくれました。確かにそうですよね・・

“主の祈り”や”使徒信条”を必ず唱えるのはProtestantと一緒ですが、Protestantのように普段の会話のような話がふんだんに含まれる礼拝とはやはり違いますね。もちろん神父からのメッセージは牧師からのメッセージと似ていて、世間話などわかりやすい話題が含まれてますし、会衆から笑いが起こったりもたま〜にありますけれど。。祈りの端々に聖書の言葉がたくさんちりばめられていて、全て聖書の教えを土台として忠実に行われている、という印象を受けました。礼拝の形式も一般の人にはわかりにくいですが、それは初代教会からずっと受け継がれている方法を彼らは守っているだけなんだ、と言う事でした。

また、これも必ず言われる事ですが、Catholicの十字架には必ずイエスがいる、しかしイエスは復活して十字架上にはもういないはずで、それはおかしい!と。。しかし、Catholicの方も、イエスが復活した事は当然わかっている!と。。しかし私の罪のために命をかけてくれたイエスを、その姿を見るたびに思い起こして、その引き換えに自分に与えられた恵みを思って心から感謝の礼拝を捧げるためなのだそうです。全く正当な理由ですね!アーメン、です。

そしてMassのたびごとに行われるEucharist(ユーカリスト・聖餐式)。聖書に書いてある通り、キリストの裂かれた御体と血潮をいただく(自分の中に取り入れ、一体となる)意味でパンとぶどう酒をいただく、という儀式ですが、その事を大変重みを持って毎回行われているのが印象的でした。

Catholicの有名な神父様にPadre PIOさん、という方がいらしたのですが、とても不思議な方で、イエスと同じように手と足に釘で打たれたような傷を常に持っていて(50年間だそうです!)、生涯癒される事はなかったようです。また神様とも直接話せるような、特別に神様に用いられた神父様でした。そのPIOさんが執り行うEucharistの様子をたまたまテレビで見たのですが、PIOさんがパン(丸いおせんべいのようなもの)を両手で掲げてから裂き、ワインを専用のグラスに注ぐ—-その様子がなんとも苦しそうなのです・・。終わった後に、altar(祭壇とでも言いましょうか・・)から下がる時には自力では歩くことができず、両隣を人に抱えてもらいながら降りていました。PIOさんはパンを裂くとき、ワインを注ぐとき、イエス様が受けられた十字架の痛みをご自身に感じながら、まさに命がけでその儀式を執り行っていたようなのです・・・これには大変にショックを受けました。。私の知っている聖餐式とは次元が違うというか。。。この映像を通して、あらためて聖餐式の意味を知る事ができた気がします。感謝!

PIOさんは「癒しの奇跡」も数多く行った方のようですが、ご自分の傷を癒すための祈りは一切なさらなかったようです。PIOさん曰く、「私の祈りは他の人々のためにしか許されていない」だそうです。。自分のために祈った事がなく、しかも自分の命を削って生涯人々のために仕え続け、神父職を全うされたPIOさん、このような方を知ることができたのも、Cathoricの世界につながることができたからで、きっと神様が何らかの目的を持って導いてくださったのだ、と思って本当に感謝しています。

まだまだたくさんあるのですが、また次回に、いろいろ学んだ事をご紹介しますね。