前回でも解説したPurgatory(パーガトーリと読みます)ですが、気になるところがあって・・・いろいろあれから調べました。

マガジンではこう解説してありました:

For those who die repentant, but have not made up for their sins or purified their hearts, the church believes in a state of purification after death called purgatory.

人が悔い改めて死んでも、その人の罪を精算してない、またはその心がまだ浄められていない場合、人が死んだ後、その魂が浄められるための段階があると信じていて、その場所を教会はPurgatoryと呼んでいる。

ってことは・・・”悔い改めた”人が入るところがPurgatoryで・・・

とすると、クリスチャンのみ対象なのかな?それともそうでないのかな?と思ったわけです。

この文章によると特に指定はないものの、私が今までいろいろと教会で学んできたことを土台とするならば、なんとなく「キリストの説く悔い改め」をした人=クリスチャン?って考えちゃう。

ということで早速、今行っているカトリックのクラスの先生に聞いてみました。

答えはなんと・・・クリスチャンに限らない!だそうです。  Σ(゚Д゚;)エーーー!?

人はこの世での生涯を終えると、誰でも(Anybody!!)、イエス・キリストによる裁きを受けます。それはあくまでも個人的な裁きで、その場に他の誰も入ることはできません。そこでその人が自分の罪について悔いている、もしくは悲しく思っている(repentantですね)ならば、誰でもPurgatoryに行く、というわけです。

そこでその人の罪、傷、怒り、ナーバスなど、神様からのものでない不純物が取り除かれ、晴れて天国へ入り、神様と完全に一体となることができ(聖書には、キリストが花婿で私たちはキリストの花嫁という表現がたくさん出てきます)、そこで永遠を過ごすことができる、という事ですね。

そして、よくカトリックで教えられるのが、「人は、その人が与えられた”光”に応じて裁かれる」ということです、キリストを知っている人はそれなりに、知らない人もそれなりに、です。イエスはその人の生涯も全て、心の中まで全部ご存知ですから、その上で裁きが行われるわけですね。となると、光がたくさん与えられている聖職者などは余計に裁きが厳しくなりますし、光があまり与えられていない人はそれなりに・・、という感じ。

もしその人がそういった浄められるべきところが一つもなければPurgatoryは行かず、すぐに天国へ入りますが、それはそんなには多くないでしょう。

ちなみに、カトリックで「聖人」とされた人、とは、天国にいることが公式に認可(Canonization, 列聖と呼ばれます)された人のことです。意味としては「神の永遠の友」という意味で、天国へ入ったことがいろいろな厳しい審査を経て実証された人だけが聖人(Saint)とされます。聖書に出てくる12使徒もみんな St. ◯◯と呼ばれますし、私達にもなじみのあるマザー・テレサさんや前教皇のJohn Paul llさん、古いところだとジャンヌ・ダルクとかもSaintとされています、日本ですと1597年長崎のキリシタン弾圧で処刑されたキリスト教徒、日本二十六聖人などがいます。

しかし普通、公式に聖人とされるまで、かなりの時間がかかるそうです。例えば、誰かがある病気の癒しのために、すでに天に召された人(例えば有名な神父とか)に”とりなし”のための祈りを祈ったとします、そしてその病気が奇跡的に癒された、となると、そのとりなしの祈りが本物であった、天に召された人は今天国にいて神に確実にとりなしてくれた、とされるわけですね。そういった事をさらに実証するためにさまざまな厳しい審査がされるんだそうです。

以下、Wikipediaより抜粋:本人の死後に長い時間をかけて行われ、早くても死後数十年、場合によっては死後数百年にも及ぶ厳しい審査を経てようやく認められる(例:ジャンヌ・ダルクが聖人として認められたのは本人の死から489年後であった)。

話がちょっとそれましたが、なにしろPurgatoryとは誰でも入れるところだそうです。入れないのは・・死後の裁きで、その人が自分の罪について悔い改めていない、神の赦しを拒絶、もしくは神様自体を拒絶してしまった人で、そういう人は地獄へ・・・ということになります。しかしおもしろいことに、カトリック教会では、地獄に行ったとされている人は未だ一人も認めてられていないんだそうですよ。

それぐらいキリストの支払ってくださったPassion(贖いのためになされたキリストの受難)の代価は無限だ、ということですよね!

そうなると、例えば一生涯のうちキリストの福音を一度も聞くことが出来ずに終えた人、もしくは、(今こちらでは大きな議論になってますが)堕胎や死産などでこの世に誕生することが出来なかった赤ちゃんたちなど、キリストの福音を聞くチャンスもなく死んでしまった人たちがたくさんいるわけで、そういう魂のためにもこの教えのほうが断然フェアであると言えますよね。

神様は愛であるお方で、一人としてその魂が滅びることを望んでおられません!アーメン

・・・とはいえ、プロテスタントの教えと真っ向から対立するような気もしますが・・・カトリックの教えの一つとしてぜひ皆さんにお伝えしたいと思ってブログに載せました。少なくとも私にとっては肩の荷が下りるような、神様の愛をもっと広く深く感じることができた教えでした。感謝!

※また、まだまだ勉強不足で、もしかして私の表現方法に不完全な部分があるかも知れませんので、どうかご了承くださいね(^^;)