The Four Last Thingsシリーズ最後、

2つ目のジャッジメント、について見ていきましょう。

 

2回目のジャッジメント=ジェネラル・ジャッジメント

 

こちらは人類全体に与えられるジャッジ、

ジェネラル・ジャッジメント、と呼ぶことができます。

 

これは、イエスがこう言われたことから来ています。

驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、

善を行った者は復活して命を受けるために、

悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

(ヨハネの福音書5:28-29)

 

この内容は、マタイの福音書25:31から詳細に説明されています。

ちょっと長いですが、大切な部分なので、そのままコピーします。

人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

そして、すべての国の民がその前に集められると、
羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
羊を右に、山羊を左に置く。

そこで、王は右側にいる人たちに言う。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、
天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、
旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、
牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

すると、正しい人たちが王に答える。

『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、
のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、
裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、

お訪ねしたでしょうか。』

そこで、王は答える。

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。』

それから、王は左側にいる人たちにも言う。

『呪われた者ども、わたしから離れ去り、
悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、
のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、
裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

すると、彼らも答える。

『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、
旅をしたり、裸であったり、病気であったり、
牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

そこで、王は答える。

『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、
わたしにしてくれなかったことなのである。』

こうして、この者どもは永遠の罰を受け、
正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 

これは、人の子、すなわちイエスがこの地に再度来られて、

全ての国の人、死んだ人も全てが復活してイエスの前に集められ、

右に羊、左にヤギ、というふうに分けられる、

そして羊たちは永遠の天国へ、ヤギたちは永遠の地獄へ、

という判決がくだされるというものです。

 

ちなみにここで、一度受けた判決が逆転することはありません、

最初の個人的なジャッジメントで受けた判決どおりの事が、

ここでもそのまま引き継がれます。

 

この時、すでに死んだ人(最近死んだ人も、何百年も、何千年も昔に死んだ人も)、

墓の中にいる人、焼かれて骨だけになった人、

骨も何もかも無くなっている人、

なにしろ、全ての人のその体がもう一度造られる、

そしてその魂が天国から、地獄から呼び出され、

その人の体に宿る=復活、レゾレクション、が起こる、というんですね。

 

無から有を造られる神様にとって、

このようなことは難しくないことなのですね。

 

私たちクリスチャンは、使徒信条の最後でこのように宣言する箇所があります。

「I believe in the Holy Spirit, the Holy Catholic* Church,…

…..the resurrection of the body and the life everlasting.」

※ここで言っているCatholic の意味は、全世界の、ユニバーサルの、
という意味で、特定の名前を言っているわけではありません、
天国には宗派はありませんから!

 

日本語でも、

「我は聖霊を信ず、聖なる公堂の教会…

…体のよみがえり、永遠の命を信ず。」ですよね。

(これはちょっと古いバージョンでしょうか?💦)

 

まさに、体のよみがえりを信じる、といつも宣言しているとおりの、

この事が起こります。

 

もうここまで来ると、本当に想像を絶する世界ですので、

信じるのは難しいかもしれませんが、

イエス様がおっしゃったことなので、そうなのです。

 

これを「そうなのだ、アーメン」と言って信じ、受け入れるか、

こんなことは起こるはずはない、と、無視するかは、その人次第。

 

でもその決断ですでに、イエスが来られた時に右側に呼ばれるのか、

左側に呼ばれるのか、が見えてきてしまいますよね、

ぜひ、正しい判断をして、右側の羊の側に入ってください!

 

そして同じ、マタイ25章23節からの「忠実なしもべ」のたとえ話にあるように、

主人は言った。

『忠実な良い僕だ。よくやった。
お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。
主人と一緒に喜んでくれ。』

と自分のジャッジメントの時に言っていただけるように、

気を引き締めて、目を覚まして祈っていきたいと思います。

また、

主人は答えた。

『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、
散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
・・・・
この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。
そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

 

こっちのグループに入らないように、この内容をしっかりと心に刻み、

最も小さい者に対しても、どんなに小さな責任に対しても、

精一杯尽くしていく人にならせていただきたいと思います。