引き続き、がんばってCatholicのinquiere sessionに通うべく、
出された課題をやっておるんですが、

(これが結構本格的で、本当に英語学校に舞い戻った感じ!久々に頭使い過ぎで頭痛がします・・)

前回のブログでも書いた通り、session第1週目に出された
マガジンに関する学びが続いてるんですが、

今回の課題はマガジンを読んで自分でピックアップしたtopicを
さらに掘り下げる、というもの。

内容はこんな感じ。

Look up three items on the St. Anthony Messenger Web site. Make notes:
a) what was the topic
b) what did you find
c) your reaction (satisifed, not  satisfied, enough for now, want to know more…)

 

私の中で1番に浮かび上がったのが、表題の「Purgatory」でした。
日本語では「煉獄」、と呼ばれるらしいです。
日本語だと響きがちと恐いですね(^^;)。。

聖書には出てこない言葉なのですが、Catholicでは
大切な教えとして教えられているようです。

マガジンではこう書かれてあるんです;

For those who die repentant, but have not made up for their sins or purified their hearts, the church believes in a state of purification after death called purgatory (from a word meaning “purify”)

人が悔い改めて死んでも、その人の罪を精算してない、またはその心がまだ浄められていない場合、
人が死んだ後、その魂が浄められるための段階があると信じていて、その場所を教会はPurgatoryと
呼んでいる。(”Purify”:浄化する、不純物を取り除く、の言葉から来ている)

と言った感じかな。。

でも、今までの教会の教え(私はずっとプロテスタント教会育ち)だと、

イエス様の救いの御業は完璧で、イエスを信じれば誰でも死後は天国へ行ける、
というのが通説。

それにプラス、ある先生の教えでは、
救いには3段階:義認→聖化→栄化 がある、とか。。

もしかしたらこの教えにはちょっと通じているのかも知れませんが、
やっぱりかなり複雑で私には難しいわ。。

何れにしてもPurgatoryの存在は特に気になってたので、
今回の課題でも第一番に選びました。

St. Anthony Messenger Websiteにはたくさんの記事が載ってて、
その中から自分の選んだトピックに関しての記事を探す、
ってのがちょっと大変だったけど、

探してみると興味深い記事がたくさんありましたので、
ここでシェアしたいと思います。
(私が勝手にいろいろな記事から抜粋したものです)

※日本語訳はほんとに、ざざっと作りましたので、
足りなかったり不完全だったりですので、あしからず!

they say that if you accept Jesus’ saving death, then all your sins are covered over like white snow covers up garbage. (This was Martin Luther’s image.) With this, you simply go directly to heaven. And for some Christians, the belief is that once you are saved, you can’t lose salvation—no matter what you do. According to these beliefs, there is no middle ground and no reason for purgatory.

人々はこう言っている:人がイエスは死から救ってくれると信じるならば、その人の全ての罪は覆われる、それはゴミの山を白い雪が覆うように(これはマルティン・ルターのイメージ)。この教えでは人はシンプルに、ダイレクトに天国行き。そしてあるクリスチャンは、人が何をしようとも、一度イエスを信じたらその救いは二度と失われることはない、と信じている。この教えまたは信仰によれば、この世と天国の間=Purgatory(煉獄)の存在はあり得ない。(注:私はクリスチャンになってからずーっとこの立場でした)

Catholic faith insists that middle ground (purgatory) is essential, because as free human beings (wounded as we are) we are still responsible for our sins and, with God’s help, can do something.We must understand what sin really means, and this can be accomplished only after death. It is not that Jesus’ death is not sufficient. It is; he did it for us.

カトリック信仰では、この世と天国の間(Purgatory)はとても重要なこととされている。人が自由意志がある存在として(傷を負うものとして)、私たちは自分の罪に対して未だ責任を追わなければならない、そして神様の助けによって、私達もその罪に対して何かできる。私たちは”罪”の意味をもっとしっかりと理解しないといけない、そしてそれはきっと死後に達成されるもの。それは決して、イエスの死が不完全だった、という事ではないし、イエスは私達のために確かにそれを達成して下さった。

Now imagine seeing God face-to-face and fully realizing his infinite love for us. Then we grasp the suffering and sacrifice Jesus experienced for us. We see clearly all the love and grace God offered. We look and it seems to be the size of the Pacific Ocean. We ask, “Lord, how much of your love and grace did we appreciate and respond to?” And God gives us a teaspoon and says, “This much!”

今、想像してみてほしい、自分が神様と顔と顔を合わせて会う場面を。神が持つ、私達のための無限大の愛にあらためて気づき、はっきりとその愛を知ることができた、そしてその次にはイエスの通った大きな苦難と計り知れない犠牲を体験して下さったことをあらためて悟ることができた、と。。そうしたら私達たちは神様の愛と恵みをもっとクリアーに見ることができる、それはきっと太平洋の海のサイズほどでだろう。そして私たちは神様に聞いてみる「主よ、私たちはいったいどれぐらい、あなたが与えて下さったこの大いなる愛と恵みに対して感謝し応答したでしょうか?」神様はティースプーンを差し出して言うだろう、「これぐらい!」

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最後の例え話は、いろんな意味でPurgatoryの理解を
すごく助けてくれたので載せました。

私が死後、天国で神様と会った時、私の場合はティースプーンではなくて、
”耳かき” 差し出されたりして・・
(耳かきはアメリカにないからこっちでは通じないけど)。

でもそれぐらい、きっと、私達の罪の性質は
神様の愛と恵みを理解することに大きくリミットを
かけているんだと思いました、
例えイエスを信じて救われた、とされていても。

そして未だ罪を犯すし、人をねたんだり悪く思ったり、
自分を許せない、とか、不信仰とか、
自己中心的な考えは一生消えないだろうし・・

その状態で、天国へ行ってインスタントに、
しかも完全に神様と一体となるのは・・あり得ないよね。

だからやっぱりPurgatoryの存在はあって当然だと思います。

と言うか、しょせん、自分の力じゃ”完全な者”とは一生なれませんから、
Purgatoryがあって逆に良かった!と思いました。

イエス様はおっしゃいました:

「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、

あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)